知財お仕事百景 #1 - プロフィック特許事務所・谷和紘先生(前編)

公開日: 2023-10-21

知財業界で活躍する実務家のキャリアを深掘りするインタビュー、「知財お仕事百景」。
記念すべき第1回は、株式会社知財塾の相談役を務めておられる、プロフィック特許事務所の谷和紘先生にお話をお伺いしました。
前編は、弁理士という職業との出会いや、大学院卒業後に就職した特許事務所・企業での経験について。弁理士試験合格の鍵は、なんと焼肉...?


最新の求人情報をチェック!
メルマガ登録はこちら≫

学生から就職まで

本日はよろしくお願いいたします!改めて、谷先生のご経歴を教えてください。
大学・大学院では半導体の研究をしていました。卒業後は企業に就職してエンジニアになるキャリアが一般的ですが、私はいきなり特許事務所に就職し、最初の事務所に3年間勤め、在籍中に弁理士試験に合格しました。
弁理士試験合格後、シャープに転職しました。2年間、主に担当していたのは液晶の出願権利化業務です。その後、ちょうど自分の親ぐらいの年代の先生が1人でやっておられる特許事務所で10年ほど働き、複数の特許事務所を経由し、今年2023年5月に自分で事務所を立ち上げたというのが、これまでの経歴です。

最初の特許事務所に入られたときは、弁理士資格をお持ちでなかった。大学・大学院時代から、就職先は企業ではなく、特許事務所だと考えていらしたのですか。
弁理士になった理由にも繋がりますが、僕は車が好きで、F1のエンジンのエンジニアになるのが子供の頃からの夢でした。大学も機械工学科が良かったのですが、成績が足りなくて、半導体の研究をする精密工学科を受けました。
高校生の頃から弁理士という職業の存在は知っていましたが、大学院に上がるときに、弁理士になるか、企業に就職するかを考えました。
企業に勤めると、働く場所と辞める時期を自分で決められないじゃないですか。例えば、メーカーとなると、勤務地は本社ではなく工場・製造拠点になったりする。でも、弁理士やったら、大阪でも東京でも好きな場所で働ける。辞める時期も、基本的には自分で決められる。そういったところもあって、弁理士試験を目指しました。

「弁理士」という職業を、高校生のときからご存知だったんですね。
高校生のときに父と進路について話す機会があって、「メーカーで自動車のエンジニアになる」と言ったら、「お前には向いてない、この本読んで将来何したいか考えろ」と言われ、高校生向けの職業紹介の書籍を渡されました。その中に弁理士があったんです。
「弁理士試験は理系の司法試験」みたいなことが書いてあって、なんかかっこいいなと。父は企業で研究開発職をやっていて、発明者として特許を出していたので、「弁理士ってどうなん?」って聞いたことがきっかけでしたね。

確かに、「理系の司法試験」って書いてあったらちょっとグッときますね(笑)。
ですよね。でも難しいって書いてあるし、ちょっとどうしようと思いましたけどね。
弁理士試験の勉強は大学院入学後に開始しました。ちなみに、学生時代は、1にバイト、2に弁理士試験の勉強と、あまり真面目な学生ではありませんでした。

学生時代のバイトは面白かったですか。
6年間ずっと塾のバイトをしていて、楽しくて面白かったです。今でも講師の仕事が好きなのは、その原体験の存在が大きいかな。将来予備校や塾の講師になるのもありかなって考えたこともあったんですけど、親に止められました。

企業に入ってほしいと思っておられた親御さん。谷先生は大学院卒業後、最終的に特許事務所への就職を決意します。
僕は企業への就職は考えていなかったのですが、親への義理立てもあって、いわゆる学推でメーカーの面接を受けました。
面接で「知財部門に行きたい」と言ったら、面接官の態度が変わりました。当時は携帯電話の生産の隆盛期で、そのメーカーは携帯電話の部品を作っていました。なので、会社としては、新卒の僕に工場の生産技術をやらせたかった。でも僕は生産技術に行ったら弁理士になるのに遠回りになるから嫌でした。結局、面接で落とされて、弁理士になるために特許事務所に行くことに決めました。

キャリアを踏み出す最初の事務所。どうやって見つけられましたか?その事務所に決められた理由は?
資格スクールの就職説明会に参加して見つけました。大阪のスカイビルの広い会場で、特許事務所がブース作って並んでいて、就職希望者がそこで話を聞くっていう。
いくつか回った中で、大阪の事務所が声をかけてくれました、京都の実家からは通勤時間1時間ちょっと。勉強時間に充てることを考えたら悪くないと思って、そこに決めました。


はじめての就職

晴れて就職。特許事務所で働きながら弁理士試験に合格されるわけですが、当時の実際の業務と学習をどのように両立されていたかお伺いしたいです。
仕事の内容は、いわゆる特許技術者。お客さんと打ち合わせをして、明細書を書いて出願する仕事です。最初の1年ぐらいは、上司である事務所の所長が仕事を教えてくれました。ただ、日本語の書き方がメインで、クレームをどう書いたらいいとか、実施形態をどう書いたらいいとかの指導が少なかったように記憶しています。なので、形だけは明細書っぽいけど、今思えばまだまだな明細書を書いていたと思います。
今の自分はそれなりに明細書を書けていると思いますが、ここまで持ってこられたのは、色んなお客さんが僕に駄目出ししてくれて、教えてくれたことが大きいです。
試験のための勉強時間は、普通の人より多かったと思います。定時で出勤して帰って、それ以外の時間は全部勉強に突っ込みました。平日6時間、土日20時間、大体週で50時間強やってました。そのおかげで、就職してから約1年で試験に合格できました。

最初から1年で受かるスケジュールで勉強されていたわけではないですよね。
はい。3年勉強したんですけど、この最初の2年は彼女がいて、彼女と遊びたい気持ちの方が強くって。
2回目の弁理士試験のときなんかひどくて、短答試験の一次試験終わったら、彼女と焼肉食べる約束してるんですよね。もう頭の中は試験じゃなくて「終わったら焼肉」になってるんです。結局50点満点で35,36点がボーダーラインのところ、25点ぐらいしか取れなかった。
勉強を始めて3年目、その彼女に振られました。この状態で彼女を作っても試験と両立できひん、それならこの1年はとにかく勉強するって決めました。友達や事務所の先輩に「受かったら合コンしてください」ってお願いして、人参ぶら下げて勉強しました(笑)。

ドラマチックですね。2年目の試験、焼肉、落ちて振られて、そこからそのエネルギーを、3回目の試験に全振りする。
覚悟を決めました。もし最初から企業の知財部門に就職していたら、僕は多分弁理士にはなってなかったと思うんですよ。知財部では弁理士の資格って必須ではないし、弁理士も弁理士でない方も活躍できるじゃないですか。
でも、特許事務所で働いてみて、事務所で働くなら弁理士資格を持ってないとあかん、と思ったんです。そんな状況に自分が追い込まれて、しかも振られて、尻に火がついたから、弁理士試験に合格できたのかなと。

色々なきっかけが機動力になったんですね。そして、合格後、シャープに転職なさいます。
当時、弁理士試験の同期合格者がシャープの知財部にいて、飲み会で話す機会があったんです。たまたま電気分野の弁理士を探していて、「僕行っていいすか」って言ったら本当に行くことになりました。
特許事務所に3年間いながら、弁理士試験に合格するという一つの目標をクリアして、ふと冷静になったときに、「特許事務所では経験できないこと」に憧れました。発明が生まれる場面や、それらを実際に活用する場面に、企業に入って立ち会ってみたいと思ったんです。それでシャープに入りました。



企業から、また特許事務所へ

シャープには2年間勤められましたが、また事務所への転職を決意されていますね。
シャープでの経験は非常に有意義でしたが、企業で2年間働いてみて感じたのは、僕は社内の調整があまり得意ではないということでした。1人で自分で仕事を完結できる明細書作成が向いていると思いました。そんなときに後継者を探している特許事務所と出会い、キャリアを発展させるならこっちかなと、転職しました。
自分にとっては2つ目の事務所。クライアントからの信頼も得られて、売上も上げられて、仕事は順調でした。今にして思えば、所長が作ってくれたプラットフォームに乗っかれて、明細書作成に集中出来たのが大きかったと思います。程なくして、所長が頑張りを認めてくれて、共同経営に移行しました。本当に順調でした。順調すぎた結果、天狗になってしまった。大量の依頼が自分に集中して、自分はすごいんだと勘違いしてしまいました。30代前半から半ばの頃です。

「仕事やってる感」みたいなものがあったのでしょうか。仕事はどんどん来るし、プラットフォームも決まっているから自分がルールを変更する必要はない。数をこなせばこなすほど「俺すごい」になる。
そうです。「こんなにたくさんの仕事してる俺スゲー!」って、勘違いしてました。
でも、その仕事って自分がゼロから開拓したクライアントの仕事ではなくて、事務所のクライアントの仕事。担当者から信用を得て沢山の仕事を貰っていたとはいえ、所長が20年ぐらいかけて作った仕組みに乗っかっていた。仕事が順調だったのはそのおかげで、僕の中身はまだまだでした。そんな中、詳しくはお話しできませんが、あることがきっかけでクライアントとの関係が微妙になり、仕事が減ったんです。結局、他事務所に合流してアソシエイトとして出直すことにしました。
そこに4年間勤め、次の事務所に3年間勤めて、独立です。転機があったのは、4年間勤めた方の事務所です。

どんな転機があったのでしょうか。
とある企業を担当することになったのですが、知財部門の担当者がものすごい方で、その方に鍛えてもらったことがひとつの転機になりました。その方は僕より10歳ぐらい年上で、知識も経験も豊富で、実務のアイディアをたくさん持っておられました。その方は、自身がブレーンとなって仕事の方針を決める。事務所の弁理士は、その方針を実現するために必死で仕事する。ただ、とにかく厳しかった。打ち合わせで怒られることもしょっちゅうありました。

今の言葉で言うと、「プロ知財部員」ですね!
僕は今でもその方には心から感謝してます。明細書の書き方も、その方と仕事をして大きく変わりました。要求レベルに応えられるように、必死でついていきました。
とにかく、打ち合わせがすごくて、一日中頭をフル回転させないとついていけない状態でした。最初のうちは打ち合わせで発言しても、スルーされるんです。しょうもない発言だからなんですが。でも、その方との打ち合わせに慣れてきて、ちょいちょい発言を拾ってもらえるようになって、それが嬉しくて。ハードでしたが、本当に面白い仕事でした。加えて、いろいろなテクニックも身につきました。

それを成長の機会と捉えられるかどうかですよね。谷先生は前向きというか、ご自身のパフォーマンスを上げることに貪欲です。
ハードすぎて逃げ出したくなることはありましたけど、その方のことが好きだったし、担当した技術分野も面白かったので、楽しくて仕方がなかったです。当時40歳ぐらい。もうとにかく「この人すげえな」って純粋に思って、この人に認められるレベルまでいきたくて必死でした。
仕事に対するマインドセットも変わりました。それまでは仕事の量が多くて目の前の仕事を処理することに必死で、例えば、誤記が多い等、完成度が甘い部分もあったんです。でも、その方は誤記一つ取ってもすごく厳しかった。そのおかげで、自分の意識の低さに気づくことができたんです。


F1好きの谷先生の事務所には、至る所にF1グッズが飾られています。

後編に続く)


転職のお悩み、お気軽にご相談ください
会員登録はこちら≫