知財お仕事百景 #2 - IPTech弁理士法人・佐竹星爾先生

公開日: 2024-06-24

知財業界で活躍する実務家のキャリアを深掘りするインタビュー、「知財お仕事百景」。第2回は、IPTech弁理士法人Smart-IP株式会社・佐竹星爾先生にお話をお伺いしました。
特許事務所、技術移転機関、大学院、企業と、様々な経験を経て、複合的なキャリアを形成された佐竹先生の現在地と、その先の展望、知財業界への思いとは。


最新の求人情報をチェック!
メルマガ登録はこちら≫


本日はよろしくお願いいたします!まずは、佐竹先生のキャリアの始まりを教えてください。
大学の頃から遡りましょうか。京都大学工学部地球工学科に入学・卒業しています。
1年浪人して1998年に入学したのですが、当時の僕の進路の選択肢としては、電気電子系か、環境系かみたいな感じで考えていました。
小さい頃から地球温暖化問題を目にしていました。1997年には京都議定書も策定された。そんな時期に工学科に入り、周りはエンジニアや技術者、研究開発をやるような指向。でも進路を考えながら調べていく中で、地球温暖化は技術というよりも国同士の経済と政治の問題だなと漠然と思うことがあり、工学部を卒業した先に自分のやりたい仕事が見えなくなったのが、大学卒業の頃でした。

そんなときに、同級生から「弁理士って職業が話題らしい」という話を聞いて、興味を持ちました。新聞にも大手特許事務所の求人広告が載っていたし、当時は小泉政権下で、知的財産戦略本部ができたのが2003年あたり。ちょうど2005〜6年のピークに向かって伸び続ける時期でもありました。
そんな状況で、2002年末から弁理士試験の勉強を始めました。2003年の短答式試験は不合格、2004年の短答式試験は合格。それで特許事務所に入所したのがキャリアのスタートです。


特許事務所へ。しかし、弁理士試験からは遠ざかる

大学を卒業し、短答式試験のみ合格した状態で特許事務所に就職されたんですね。
そうです、2004年の秋です。
事務所に入る前、1年半ぐらいは試験勉強だけしていました。大学時代の同級生は就職してる人も、大学院に進学した人もいる状況で、僕は学部卒で試験勉強。当時はX(Twitter)もなかった。横が何してるか情報を取りづらいし、解像度も低い。大学院は出てないし、働いてもいないから収入はない。そんな自分を脳内で描いた他人と比べてしまうことも多かったです。

大学院に行きながら弁理士の勉強をするとか、就職しながら勉強するなどの選択肢は。
なかったです。大学院でやることのイメージもできず、勉強するモチベーションもなく、情報収集のツテも作ろうとしなかったこともあって、大学院も受験はしたけど普通に駄目でした。

当時の特許事務所への就職事情をお伺いするのですが、未経験でも求人はあったんですか。
人員拡大・増員する特許事務所が増え続けていた時期です。事務所からしたら毎年国内の特許出願件数が増え、とにかく数をこなすしかない状況。僕の最終学歴は京都大学だったこともあり、短答式試験に合格した段階で事務所に応募したので、内定をいただけました。
今でも、旧帝大卒・短答式試験合格という経歴は、未経験でも採用される可能性は高いと思います。

こうして入所が決まるわけですが、弁理士資格のない中で、特許事務所ではどのようなお仕事をされていましたか。
国内、海外の特許出願の実務をやっていました。アメリカやヨーロッパの中間手続が最初の仕事でしたね。実務経験はなかったけれど、短答式の知識は一応ある状況で、実務を回していました。

そのうち、業務に押されてしまい、だんだん弁理士試験から遠ざかっていきました。
事務所内にもなんとなく「弁理士試験を受けなきゃ」っていう雰囲気はあるんです。同僚には他にも同じような受験生がいる状況でした。
ただ、大手電機メーカーがクライアントで、仕事はたくさんあった。所員も数十人体制。「勉強時間が取れない」というのは完全に言い訳で、実務を回すことを優先した結果、試験前の詰め込みが重要な短答式試験も合格しなくなり、一旦弁理士試験からフェードアウトする時期がありました。


はじめての転職

最初の特許事務所は、入所して2008年3月までいたから、3年半ですね。
弁理士試験を受け直すまでの間として、技術移転機関(TLO)の話が出てきます。技術移転機関は、大学の研究者の研究成果を特許化し、それを企業へ技術移転する法人です。
大学等技術移転促進法が1998年に成立し、技術移転機関が日本に登場しました。
2008年、僕は30手前でした。「転職できるのは30代前半まで」という考えがまだ根強く認識されていた時期。このままずっと定年まで働くのか。知財の権利取得は経験できているけど、その先の権利の利活用までは手が届いていなくて、知財実務の全体の中の一部しか触れられていないもどかしさも感じました。
そんな中、TLOの存在を知り、応募してみたら採用されました。

やっていた仕事は、営業です。研究成果を活用して事業化するために、特許という軸を交えて仲介をする仕事。営業先は研究所長や事業部長。ライセンス条件を決めたりしなきゃいけないわけですけど、それを説明しようとすると、事業や経営に関する知識が必要だなと思いました。でも工学部卒だし、特許事務所でしか社会人経験がないので、企業や経営について知らないことも多かった。

勤めていたTLOは京都大学から業務委託を受けていたこともあり、オフィスが大学の構内で、同じフロアに京大大学院のMBA課程(京大MBA)の教室がありました。そこで、仕事をしながら科目等履修生としてMBAの授業を受けに行ってみることにしました。当時はまだ京大MBAが立ち上がって3年ぐらいの時期だった。

大学の研究成果のライセンシングもまだまだ黎明期でした。リーマンショックの前の時期は企業も自前主義が根強くあり、第三者の技術を信用しない風潮は、当時は根強かったように思います。今ではオープンイノベーションを普通に謳っていますが、当時はそんな日本の企業も少なかった。海外の企業は外部の技術を導入するところもたくさんあったにもかかわらず、です。そんな状況で、売上を立てるための営業の仕事を3年はやろうと思っていたのですが、結局2年しか続けられなかった。

そのまま通っていた大学院に進学。科目等履修生として受けていた授業が単位認定され、大学院は1年で修了できました。
大学院進学を決めた年に、短答式試験にも合格。2011年3月、大学院のMBA課程を修了し、大手の特許事務所に2011年9月秋に入所。入所した年に論文式試験に受かりました。
この事務所には4年半所属し、その後独立を考え始めました。転職支援サイトに登録はして、オファーがあれば面接を受けていました。だけど、関西の大手特許事務所にいたこともあり、関西圏の大手企業の知財部の業務は想像がついていて、自分の中でなかなか決め手が見つけられなかった。

事務所に勤務経験のある方からすれば、企業の知財部は当時のクライアントですものね。ピンと来ませんでしたか。
キャリアの延長線としてはありえると思うけれど、爆発力のあるイメージが自分には描けなかったんですよね。
大手メーカーのマネージャー名義のオファーをもらって面接のみ受ける気持ちで選考に臨んだら、まずSPI試験を受けるよう指示されることもあった。面接会場には知財部長と思わしき人が座っている。面接も弁理士口述式試験の10倍くらい離れた距離で実施されることもあり、心理的にも距離の遠いコミュニケーションで、「この人の下で働くのかな?」とイメージが描けない感じ。面接に行ってみて「やっぱり独立だろうか」という確認作業の連続でした。
結局、独立の意思を固める意図で転職活動をしていたんですけど、唯一、ゲーム会社のコロプラだけに興味を持ちました。

コロプラには、どんな魅力を感じられたのでしょうか。
2010年代前半、上場している関西圏のIT企業はかなり少なかったはずです。でも、東京にはいっぱいあるじゃないですか。地域差は確実にあると感じました。
関西圏からそれまで出たことのなかった自分の目から見ると、IT業界は若い人が多い。面接に行ってオフィスを見せていただいたときも、自分よりも若い人が多かった。社員の平均年齢は30歳ぐらいで、新卒で入社して25,6歳でマネージャーって、IT業界ではそれなりにあるケースじゃないですか。
年功序列が当たり前の大手企業を見てきた人間には、それがすごく新鮮だった。東京に出てみたい、IT業界も知りたいと思い、2016年に東京に出てきました。当時37歳です。

コロプラから内定が出て、上京。コロプラではどんな学びがありましたか。
上場企業での働き方を知ったのは、コロプラが初めてでした。エンジニア、デザイナー、プランナーともよくコミュニケーションをとっていましたし、取締役と法務・知財部門の定例会議が毎週あって、取締役目線の考え方を直接教えてもらうことができました。当時は知財訴訟や他社との交渉もやっていたので、社長の部屋にもよく行っていました。現場や経営層に近いところで仕事ができたのは、得るものが大きかったです。


企業知財部から、特許事務所・企業の2本柱のキャリアへ

3年ほどコロプラに在籍。その後、現在のIPTech弁理士法人に入所されます。
IPTech弁理士法人に入所した理由は2つあります。
1つは、これからスタートアップの業界が盛り上がるんじゃないかと。コロプラもスタートアップへの投資部門を持っていたし、ファンドも運営していました。2018年ぐらいになると、特許庁もスタートアップ支援のイベントを多く催し始めます。これはいよいよスタートアップ投資による新規事業の機運が本格的に高まってくるんじゃないかと感じました。

もう1つは、組織の構築をやってみたかった。コロプラでマネジメントをやる可能性もあったとは思うのですが、自分の目線としてはまだ先になりそうかなと思っていたタイミングで、IPTech弁理士法人の経営陣と話す機会がありました。彼らはIPTechを法人化して組織構築を進めようとしていて、現場部門を見るマネージャーを必要としていました。マネージャーとして、他の特許事務所との競争もある中で、我々はどう生き残るのかということも、マネージャーの立場から考えることができました。

事務所としての生存戦略を考える辺りは、MBAの経験が生きてくるところですか。
MBAの経験も、これまで出会ってきたマーケターたちの教えも背景にはありますね。TLOのときの技術営業経験も生きています。

IPTech弁理士法人への入所が2019年です。その後、Smart-IP株式会社に入られたきっかけを教えてください。
Smart-IP株式会社は、創業者がIPTech弁理士法人の同僚である湯浅竜です。湯浅から「知財業界の業務改善・DX化がなかなか進んでいない」という課題を聞き、その通りだと思ったのがきっかけでしょうか。
特許明細書という成果物を作るためのプロダクトがあったら、今の業務はより効率化できるだろうと。Smart-IP社創業時もよく言っていたんですけど、プロダクト開発は結局誰かがやるし、海外で流行ったサービスがいずれ日本にやってくるとわかってはいても、自分たちでやれることがあるなら、やってみるのがいいんじゃないかと思いました。
そんなわけで、Smart-IP社では、実務家の観点から開発チームと話をしながら、プロダクトの仕様を固める業務をしています。

現在は、IPTech弁理士法人とSmart-IP株式会社の2本柱は変わらず、IPTech弁理士法人ではマネージャーでなくプレイヤーに戻られているとお伺いしました。どのような経緯だったのでしょうか。
マネージャーを5年やったところで、今年双子の子供が生まれました。育児のことを考え、家族と相談して、業務範囲を絞ることにしました。マネジメント業務は事務所の別の担当者に引き継いで、できる範囲でプレイヤーとして働こうかと。
プレイヤーは案件1件あたりいくらという報酬体系でシンプルですし、業務量も調整しやすいかなと思い至りました。


育児休暇の、その先

しばらくご家庭で育児をされながら、お仕事はセーブされるんですね。今後のご自身のキャリアについては、どのようにお考えですか。
短期的には育児と両立しつつ稼ぐことです。子供の成長のために、教育や体験に使えるお金を貯めたい。それも数年で終わると思っていて、その先何をやるかはその時に見つかるだろうと考えています。
家族との時間に注力しつつ、稼ぐことにフォーカスするため、プレイヤーとして、案件をいかに効率よくこなすかが今は重要です。それ自体はSmart-IP社にとっても重要な体験で、そのためのツールを作るところからやることになるので、プロダクトの提供価値をユーザー目線で具体的に考えられるところに繋がっていると感じます。

キャリアプランを明確に描かれるタイプかと思っていました。その先は、全くイメージのない状況ですか?
知財コンサルティングの経験を業界全体に広げていくとか、この記事を掲載している株式会社知財塾の「知財塾ゼミ」での講師業を通じて実務者を増やしていこうと考えています。知財業界で働く人を増やす、裾野を広げる活動です。
それから、知財コンサルティングの領域で、企業の複数事業を束ねる戦略・戦術もやっていたりするのですが、そういうことができる人材も増やしたい。
あとは海外進出の構想もありますね。そんなにまだ具体的ではないですが。

複数の立場を持ち、育児休暇をとりながら、柔軟に働く。佐竹先生の積んできたキャリアだからこそ、選べる働き方でしょうか。
10年程度の経験を積んだ中堅からベテラン層であれば、売上も安定しているでしょうし、この働き方を選んでいる人もいると思います。業界に入ったばかりのジュニア層だと、売上と給料が見合うかどうかをまずはクリアすれば良いかと思います。厳しい部分もあるかと思いますが、本人の努力次第です。

業界に悲観的な意見を言う人もいますが、うまくいってる人の声が外に出てこないだけなんじゃないかな。弁理士という仕事は、ちゃんと稼げます。働く時間や場所を選ばず、リモートワークも可能な仕事。子供を育てながらの生活だと、その柔軟な働き方を選択できることは、やっぱりありがたいです。稼げて働き方も選びやすい、いい業界だと思いますよ。

本日は貴重なお話をありがとうございました!


転職のお悩み、お気軽にご相談ください
会員登録はこちら≫

ハイクラス転職を目指す人のための姉妹サイト「PatentJob Agent